水文化が語る文化的景観(先人の知恵が生きる板倉町)
更新日:2023年1月13日
はじめに
平成16年に文化財保護法の改正により「文化的景観」が文化財の一つとされました。文化的景観とは人間の手が加わることによって守られてきた景観のことで、棚田などが値します。それに先だって行われた農林水産業に関する文化的景観(文化庁)の調査によって、平成15年、板倉町の谷田川流域は渡良瀬遊水地の複合景観としての重要地域という認定を受けました。県内にあっては、甘楽町の「那須集落の段々畑と石垣」との2箇所を数えるのみです。
位置と立地
北を渡良瀬川、南を利根川が流れる、まさしく県境の町が板倉町です。群馬県の最東端、栃木県と埼玉県に楔を打ち込んだような地域に位置しています。東側には、四県にまたがる広大な渡良瀬遊水地が広がっています。さらに、利根川にほぼ平行して流れる谷田川をはじめとして、町内には中小河川が走り、水郷景観を呈しています。沖積地(板倉低地)を取り囲むように集落が、洪積台地と自然堤防上に形成されています。標高は14~25メートルと県内で最も低い地域にあります。
歴史的環境
このような低湿地にありますので、古代より、水害に見舞われ、河川の変流を余儀なくされてきた地域です。古墳時代から平安時代に洪水被害を受けている遺跡として谷田川流域の沼田南遺跡、岡村遺跡、利根川流域の辻遺跡などに顕著な爪痕が確認されています。逆に、現在の河床から、人間が住んでいたと思われる形跡があるのは渡良瀬川河床遺跡(古墳時代中期)です。このような遺跡はまぎれもなく、自然災害と言えますが、近世になると、そればかりではなく、人的災害と言っても過言ではない現象が見られます。
本町の場合、江戸時代前半頃までは、板倉低地に一度入ってしまった水は自然排水することができない冠水害が多く、板倉地区の被害が多く見られます。その後利根川の東遷にはじまり、天明3(1783)年に浅間山の噴火によって利根川の河床が上がり、河川の決壊による水害が多くなります。渡良瀬川では町内の上・中流部となる西岡・離地区等の決壊が見られ、さらに天保年間(1830~1843年)に造られた「江戸川の棒だし」によって、町内における渡良瀬川下流部の海老瀬地区の決壊が急増してきます。つまり、板倉町の水害は浅間山の噴火という自然災害に加えた「利根川東遷事業」と「江戸川の棒だし」による人的災害が強いのではないかと考えてます。さらにその後、洪水は足尾鉱毒の鉱毒水をも運び、鉱毒被害を拡大させていくこととなります。明治20年頃のことです。しかし昭和前半期、排水機場の整備に伴い、治水事業は大きな進展を見せることとなります。おかげで昭和22年のカスリーン台風以来約60年、水害に見舞われてはおりません。
また陸田化が進み、昭和39~41年には穀倉地帯となって、「板倉低地に菜の花を咲かせて見せる」という住民の夢を現実のものとしたのです。そして利根川と渡良瀬川からの用水事業に伴うパイプライン化によって、林立していた陸田小屋(浅井戸)の姿も消えつつあります。
先人の知恵に見る文化的景観
水防への備え(水塚と揚舟)
前述のとおり、古代より水害に苦しめられ「蛙が小便しても水が出る」などと、言われたほどの水害常習地帯にありながら、先人たちは水の被害を享受し、知恵をも生みだしてきました。なかでも特筆に値するものに、水防の知恵があります。その一つが水害時に避難する建物「水塚」(写真1)です。昭和54年には三五四棟在った水塚も平成13年には一五〇棟となり、現在では一四四棟と年々減少しています。
これらの水塚の特徴は、あくまでも簡易な、短期間の避難小屋です。その多くは2間×3間の2階建てで、一階は穀物などの貯蔵空間、2階は居住空間です。調理場やトイレなどの付属施設は一切付いていません。しかし下屋庇は広くとってあります。おそらく調理場になったり、大きな荷などを入れるためかと思われます。なかには下屋庇の四方を囲み、味噌部屋としているものもあります。2階は、少しでも広い居住空間を設けるために、天井は張らずに、小屋組を見せたままとなっています。また階段としての床の開口部分を閉めてしまう戸が付いているものもあります。穀物の貯蔵法(積み方)としては、水に浸かっても食べられる麦を下段にし、米や大豆は上段に積みます。また前年の水位(水盛り線)を記し、それよりも麦を一段高く積むようにします。前年の水位によっては、水塚自体を盛り土してさらに高くする工夫もしています。
ところで板倉町には「新米を食べるのは恥」との考えがあります。つまり新米は備蓄米とするもので、それまで食べてしまうのは、貧乏であるということの考えからです。家族の1年分の米とお葬式用の米そして種籾は、残しておかねばならなかったのです。このように「水塚」には多くの知恵が詰まっております。
二つ目が「揚舟」(写真2)です。古文書には「用心船」と記されている舟で、納屋などの軒下に揚げられています。揚げられている舟は長さ約6.3メートル、幅約一メートルの普通舟と、幅が1.3メートルの馬舟があります。しかし、揚がっている舟は漁船であろうともすべて「揚舟」です。昭和54年には四四〇艘でしたが、現在約二00艘を数えます。ロープを梁にかけて行う「揚舟」の上げ下ろし、あるいは、乾燥している舟を早急に膨張させて水漏れを防いだり、荷は浮いてから載せるなど多くの知恵が伝えられています。「揚舟」は避難のほかに、水や食料を持って、お見舞いに行く「水見舞い」や、水に浸かって稲穂のみを刈り取る「舟刈り」などに使われます。
谷田川流域
先人たちが営々と築いてきた低地の生活や文化を景観の中に見ることができます。平成15年「農林水産業に関する文化的景観」の重要地域として認定を受けた箇所は、町の南側にあって、西から東の渡良瀬遊水地に流れ込んでいる谷田川流域に点在しています。
西方部にあって、谷田川右岸側の河川敷内で耕作する「飯野の川田」(写真3)は、川の水が入るように堀を掘り、掘り上げた土を耕作面にのせ、少しでも高くしようとしている掘上げ田で、全国的にも珍しくなった田です。
やや下流に「谷田川サイフォン」(写真5)の取水口と出水口があります。利根川の左岸地域を流れる大箇野排水路は河床が低く、谷田川へ自然流入できないために、暗渠排水しているのです。そのサイフォンのすぐ東側に、海老瀬地区と下五箇地区の中州を挟んで結ぶ通称「潜り橋」があります。町道に架かる橋で、沈下橋(合の川橋)(写真6)です。昭和30年代までは、谷田川流域に多く見られたようですが、現在は、これら二橋のみとなっています。
谷田川が渡良瀬遊水地に流入する堤下に、谷田川第1排水機場(写真7)があります。日本で稼働するポンプとしては最古の排水機場です。板倉町民の命を守る排水機場は7箇所を数えますが、そのうち利根川の「谷田川第2排水機場」、大箇野川の「大箇野排水機場」はそれぞれ昭和25年、昭和29年の製造ポンプが使われています。このように古いポンプの排水機場が三箇所も現存しているのは、全国的にも珍しく、板倉町ならではのことではないかと思われます。
また谷田川の南西部にある「柳山」(写真4)は、燃料用の薪をとるために造られた林です。低地のために平地林がないので、ヤナギの枝を挿し木したものですが、枝を伐らなくなっ林は、ジャングル様のヤナギの河畔林となって、動植物の宝庫となっています。また町内にはその他にも数多くの水文化が造りだしている文化的景観が、原風景ともなって、人々に安らぎを与えています。たとえば集落を水害から守るための「囲堤」や「陸田小屋」などもその一つです。
後世への伝承(おわりにかえて)
治水事業の進歩により、幸いなことに60年近くも水害を受けていません。そのため、ややもすると受け継いできた知恵は薄らぎつつもあり、消えつつもあるのが現状です。ですから先人の知恵を現代に生きる我々が駆使し、伝えていくことが重要であり、そうすることによって、水害に強い「まちづくり」ができると確信しています。
町では「水場の知恵袋」と称して、小学生に揚舟の上げ下ろし、漕ぎ方等の体験学習「揚舟講座」とカスリーン台風の教訓を生かすために体験談を語る「水場の語り部」を行っています。また、近年は観光事業として柳山を一周する「揚舟ツアー」を展開しています。水辺からの景観を眺めながら、船上から、遠く古人の知恵に思いを馳せています。
このような中にあって、板倉町は町制50周年にあたり、「文化的景観の保全」を宣言することとなりました。さらに「板倉町民俗文化伝承士」の認定を行います。「水場の知恵を伝える」「舟を漕げる」「糸が紡げる」「機を織れる」などといった多くのすばらしい技を持っている方々がたくさんいます。この人たちこそ町の財産「人材」ならぬ「人財」ではないかと考えます。そこで、この認定制度を設けました。伝承事業にご協力いただくとともに、これらの方々が活き活きすることによって、町が活き活きしていくのではないかと願っている次第です。
(ぐんま地域文化 第25号 より)
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写真1(水塚)
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写真2(揚舟)
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写真3(飯野の川田)
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写真4(柳山)
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写真5(サイフォン出水口)
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写真6(潜り橋)
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写真7(谷田川第1排水機場)
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写真8(渡良瀬遊水地のヨシ焼き)